草津旅行初日。高崎市、湯畑、西の河原

定住生活もいつの間にか一年を超え、成仏したかのように旅とは無縁の日々を送っていた近頃だったが、先月は久々に家族揃って四年前ぶりの那須高原へ行ってきた。

ピンポイントで台風21号に直撃されたものの、懐かしのイタリア小僧どうぶつ王国のネコショーなどを見て回り、残る時間はホテルに籠って食事と温泉三昧。思い出の場所でゆっくりと寛ぎの時間を過ごすことができた。

どうぶつ王国のネコ

続くときには続くもので、その翌週にはさらにShanと二人で草津温泉へ。台風も去ってまあ天気の心配はないだろうと思っていたところ、新たに発生した台風22号にまた直撃されるという、そんな泣ける状況から二人の草津旅行はスタートした。

第三京浜へ

草津温泉といえば江戸時代には”東国一の名湯”といわれ、今でも高い人気を誇る温泉地だが、自分たちは草津どころか群馬県を訪れるのも今回が初めて。なのでどんな場所かと期待に胸膨らませつつ、まずは昼食を取る予定の高崎市を目指した。

高崎市は県庁所在地の前橋市と並ぶ群馬ツートップの一角。関越道を走ること約2時間で順調に到着すると、昼食予定の店が開くまでに1時間以上あったので、ひとまず近場にあった観音山古墳を見に行くことにした。

観音山古墳

この古墳は6世紀に築かれた比較的大きな前方後円墳。しかし現地に着いてみるととにかく人がいない。。台風が迫るなか古墳を見学しようと思い立つ物好きはあまりいないようだった。

古墳に登る

しかし、それでも旅行続きのためかShanのテンションは高く、古墳でコーフンとか謎のダジャレを口にしながら元気に階段を登ってゆく。その方向で日本語が達者になっても仕方ない気もするが、ともあれShanの後を追って古墳の上へ。

古墳の石室

手始めに中腹にある石室を覗いてから、後円部の頂きに登って全体を見渡してみると、古墳の四角い前方部がなんとなくそれらしく分かる。周囲の見晴らしもいいので、晴れた日などはなかなか気持ちの良さそうな場所だった。

ちなみに群馬は”古墳王国”ともいわれ、県内には1万基以上もの古墳が存在する。古墳時代には交通の要衝として東日本で一、二を争うほど栄えていたらしく、当時馬の生産に力を入れていたことで、馬と縁の深い土地になったのだそう。

古墳王国群馬

とまあ古墳観光を終えてもまだ時間に余裕があったため、今度は高崎駅近くの高崎城もチェックすることにした。市役所の地下に車を停め、向かいにある高崎城址公園を歩き回ってみたが、とりあえず目に入るのはひたすら普通の公園。

高崎城址公園

まさか文字通り跡地だけ…?と不安がよぎるも、川沿いを歩き続けているとようやく櫓をひとつ発見。建築物としてはこれだけだったが、それでも井伊直政築城の面影を偲ぶことはできたので、寄り道の甲斐はあったように思う。

高崎城の乾櫓

習慣となってしまった城チェックの後はようやく昼食を取るため同市内のうどん屋めんいちへ。ここでの目当ては群馬県桐生市の名物ひもかわうどん。意外と高崎や前橋で出している店が少なく、ようやく見つけたのがこの店だった。

めんいち

ひもかわとはきしめんに馴染んだ名古屋人も真っ青な超絶平麺うどん。食べているうちに何だか餃子の皮でも食べているような錯覚に陥るが、麺はモチっとしてコシも程良く、気がつくと二人で三人前をあっさりと平らげてしまっていた。

めんいちのひもかわ

無事に腹ごしらえが済んだ後はいよいよ草津へ。高速を北上し、伊香保からさらに下道をひた走る。長野県に近い山奥にある草津温泉だが、さすがに有名な観光地だけあって、幅の広い国道が近くまで通じているのでアクセスは想像以上に便利だった。

伊香保から草津へ

それでも休憩を入れて1時間半ほど走り、ようやく草津温泉に到着。すると駐車場の紅葉がちょうどいい具合に色付いていた。

草津温泉観光駐車場

幸い雨も一時的に止んでくれたので、気合を入れてまずは温泉街の中心にある湯畑を目指す。途中、光泉寺という寺の境内を抜けていくが、この辺から既に硫黄の臭いが漂ってきて、段々と温泉気分も高まってくる。

光泉寺

光泉寺からの湯畑周辺

草津温泉には大きく分けて6つの源泉があるが、最初に見えてきたのは唯一白濁しているという白旗源泉。お金を投げ込まないでとの注意書きもむなしくコインだらけだったが、いっそ賽銭箱でも置いておけば一挙両得になるような気もした。

白旗源泉

白旗源泉の湯

白旗源泉の隣にはその湯を引いた共同浴場と、草津名物の湯もみショーが行われている大正風建築の熱乃湯。そして、その向かいには濛々と湯気の立ち上る湯畑があった。湯畑もまた草津の代表的な源泉のひとつ。

熱乃湯

他の観光客に混じって早速湯畑を覗き込んでみると、そこはちょうど源泉の湧き出るポイントだった。底に見える木枠は徳川吉宗がここから湯を樽に詰めて江戸城へ運ばせたときのものだとか。

吉宗御汲上の湯

1分間に4,000Lも湧き出る湯畑の源泉は最高90℃とかなり高温なため、水で薄めることなく適温まで冷ます必要があるそうで、そのためにまずは7本の木樋に分けて流される。

7本の木樋

7本の木樋から合流

そして終端で再び一本の木樋にまとめられると今度は一気に急落下。そうした後にようやく各旅館へ送られるのだそう。このような仕掛けは全国的にも珍しいらしく、Shanもインスタ映えだとか騒ぎながら楽しんでいる様子だった。

滝のように落下

湯滝

湯畑を一通り見たあとは温泉街を巡って食べ歩き。黒糖饅頭や揚げ出し餅、炭火焼鳥などを歩きながら頬張り続けたが、その中でもとりわけ天婦羅のような衣のついた、山びこ温泉まんじゅうの揚げ饅頭は心の琴線に触れる一品だった。

山びこ温泉まんじゅう

と、食べ物目当てにぶらぶら歩いていると、温泉街の外れにある西の河原公園に出くわした。公園といってもここも草津の代表的な源泉の一つに数えられるらしく、敷地のあちこちから湯が湧き湯気が立ち込めている。

西の河原公園

西の河原公園の湯

お地蔵様もこの通り、オーラを身に纏ったような圧巻の迫力。遊歩道沿いには他にも文学記念碑や偉人像などがあり、開放的な大浴場も備えるなど、ここは非常に見どころの多い場所だった。

西の河原のお地蔵様

温泉街散歩の締めくくりは15時半からの湯もみショー。湯畑前の熱乃湯に戻って入場すると、映像とMCからの湯もみ実演が始まる。草津節とともにゆったり揉むところはイメージ通りだったが、終盤に突如荒ぶるのがなんだか面白かった。

熱乃湯の湯もみショー

実演体験のコーナーではShanも湯もみをさせてもらい、近くからその様子を携帯でビデオに撮ってもらうなど親切にしていただいた。そんな感じで温泉街を十分に堪能したところで、この日はそろそろ宿へと引き上げることに。

季の庭

この日泊まったのは温泉街の南の高台にある季の庭という和風の湯宿。翌日の天気予報が雪に変わっているのが恐ろしくもあったが、ひとまずそれは考えないことにして、部屋の風呂で一日の疲れを取ることにした。

季の庭の部屋

季の庭の客室露天風呂

夕食はもちろん和食だった。地酒を飲みながら群馬感のある献立の数々に舌鼓。ちょうど挙式一周年と重なっていたため、そんな話もしつつゆるりとした寛ぎのひと時となった。

季の庭の料理

夕食後は写真を撮るなどしてから館内の湯めぐりに出発。2つの源泉と23の風呂があるとかで、畳敷きの回廊を歩きまわりながら、まずは最も大きな大浴場季の湯に入ってみることに。

季の庭の館内

しかし、この頃には群馬県も暴風域に入ったのか、雨風が激しさを増していた。扉を開けると寒風が吹き荒れていたので露天風呂は一度は諦めかけたが、ふと暴風雨の中で温泉に浸かる機会もそうないと思い直し、決死の突撃を敢行することに。

飛び出して数十秒は激しく後悔したものの、実際に湯に入ってしまえば何のことはない。闇夜を切り裂く風の轟音と、暗闇のなか不気味に踊り狂う巨木の姿は何だかちょっとした異世界感があって、個人的には大変オススメな温泉の楽しみ方だった。

湯上がり休憩所

湯上がりにはShanと休憩所で待ち合わせて深夜の夜鳴きそば。この時間帯のラーメンが美味しくないわけはなかった。

夜鳴きそば

ということで群馬上陸も初日が終了。なにやら長くなったので二日目はまた別で残しておきたいと思う。

実家の愛猫しょんの思い出

今回は普段と話題が少し違うのですが、忘れたくない思い出の記録がこのサイトの趣旨ですので、今日は実家で飼っていた猫のしょんについて少し書きたいと思います。

去る9月14日、実家の愛猫しょんが急性腎不全で他界しました。16歳4か月でした。

上目遣いのしょん

猫で16歳なら短命とは言えませんし、しょんは家族全員からまさに猫可愛がりされてきた猫なので、飼い猫としてとても幸せな一生を送ったと言っていいのだと思います。ただ、理屈ではそう分かっていても、しょんは自分の人生のおおよそ半分を共にした猫なので、今の気持ちはやはり、ただ、ただ寂しいの一言です。

寝そべるしょん

アメリカンショートヘアのしょんが叔母のつてで我が家にもらわれてきたのは2001年。当時は自分も名古屋の実家にいて、ピカピカはしていなかったかもしれませんが10代の大学生でした。

まだほんの子猫だった当時のしょんはとにかく元気いっぱい。動くものにすぐじゃれついたり、カーテンや網戸にバリバリと登ったり。歩きながら水をポタポタ垂らしてやると興奮して追いかけてくるので、いくら母親に床が濡れるのでやめるよう注意されても、こっそりよく一緒に遊んでいました。

赤ちゃんしょん

翌年には兄妹同然に育つミニチュアダックスのモモも加わり、順調に育っていくしょん。イケメンな上に骨格がしっかりしていて、尻尾はすらりと真っ直ぐ伸びています。めったに鳴くことはなく、鳴いても誰も気づかないような小さな声で「オカー」と言うだけの控えめな性格の猫でした。

ちょっとご飯の誘惑に弱く、猫らしく愛すべきバカとでもいうような愛嬌も備えていましたが、何事にも動じないおおらかさがあり、そんなしょんを家族はみんな大好きになりました。

横顔のしょん

2005年に実家が川崎市へと引っ越すと、この頃からしょんは父親のたっぷりの愛情と美味しいご飯を与えられ、幸せなデブ猫への道を着実に歩むこととなりました。アザラシだとかトドだとか言われることもありましたが、人間の言葉で何を言われてもそんなことはお構いなしです。

ひっくり返るしょん

2008年には自分たちも仕事の関係で同じ川崎市へ。再びしょんと時々会える距離で生活を始めました。2012年に移動生活を始めてからは、その合間によく実家で居候をしていたので、また一緒に暮らす機会もできるようになりました。

水飲み場のしょん

実家でのしょんのお気に入りの場所は、キッチンの横に敷いてもらった猫用クッションの上。身体が大きいのでちょっとはみ出ていましたが、ここからリビングにいる家族の様子を眺めているのがいつもの光景でした。

キッチン横のしょん

リビングのソファに人がいないときは、そちらに陣取って毛繕いをしたり、寝転がったりするのも好きでした。大物なので寝相はいつも豪快です。隣のモモは一生懸命、おやつの骨スティックをかじっています。

ソファで寝るしょん

また、しょんは猫だけにブラッシングされるのも好きでした。よく母親の膝の上で毛を梳いてもらって気持ち良さそうにしていましたが、そのときにできる副産物のヘアボールはうちの愛猫みーの一番のおもちゃになっています。

シャーシャーするしょん

夜寝るときは父親の部屋へ行きたがったりしましたが、鳴きはしないものの、枕元に立ってじっと存在感でご飯を訴え続けるしょんは睡眠の大きな妨げとなるため、基本的にはモモと一緒に母親のベッドで寝るのでした。

ベッドで寝るしょんともも

日中は仕事をしている自分の部屋にも、しょんはよく遊びに来てくれました。切りがついてふと振り返るとソファの上でくつろいでいたり、ぐっすり眠りこけていたりといった感じです。

遊びに来たしょん

ときにはそれに留まらず、デスクの上に乗ってきてご飯を要求し出すこともありました。しかし、さっき食べただろうと無視していると、突然そのまま居眠りを始めたりもします。さっきまでの訴えは一体何だったんだという感じです。

要求するしょん

また、この時期はうちの愛猫みーも同居していたため、ペット3匹が集結するカオスな事態となっていました。日中の世話は主にShanが担当。しょっちゅう外へ行きたいモモと、あちこち走り回りながら騒ぐみー、そしてひたすらご飯を求め続けるしょん。自ら”悪の三銃士”と名付けた3匹に、ご飯をあげたり、あやしたりと、もはやShanは幼稚園の先生状態でした。

幼稚園状態

これはそんなShanが撮った妹のご飯の横取りを狙うしょんの図。食欲に負けて見事に手が出ています。モモが可愛がられていると、たまに嫉妬したりする子供っぽい一面もありました。

横取りを狙うしょん

3匹は慣れ合いはしないもののお互いの存在を認めてはいるようで、寒い日には電気カーペットの上で一緒に寝たりということもよくありました。同居でしょんの穏やかな気質を少しでも学んでくれたら良かったのですが、しかしみーにその気はなかったようで、今も相変わらずおてんばな性格のままです。

しょんとみーの寝姿

こんな風にしょんをモフモフと可愛がりながら共に過ごした日々は、今思うと本当にかけがえのない時間でしたが、当時はあって当たり前の毎日で、それがこれからも続くのだと何となく家族全員が当然のように思っていました。

バリバリするしょん

そんなしょんに異変があったのは今年の4月19日。突然ボタボタと鼻血を出し、急遽係りつけの病院へと連れて行きました。血液検査の結果、当初は打撲で上がる数値が上昇していたので、おそらくどこかにぶつけたのではという話でした。

しかし、その後二度目の鼻血が出たため、5月16日に紹介を受けた麻布大附属動物病院でより精密な検査を受けることになりました。病院のある相模原までは片道約1時間半。自分とShanで連れて行ったので、名古屋時代に内海へ行って以来のしょんと3人の遠距離ドライブとなりました。

麻布大学附属動物病院

午前中にしょんを預けて、言われた通り午後まで時間を潰してから先生の診断を聞きに行くと、結果は予想外の肺癌。CTの結果、鼻血と関係のないところでより重い病気が見つかったのでした。

何だか実感が湧かないまま聞いた話では、猫の肺癌は手術をしても予後はあまり芳しくなく、苦しめるだけに終わることが多いとのこと。転移ではない原発性の癌であれば、それでも半年から1年生きるケースもあるらしく、元々寿命も長い訳ではないので穏やかに暮らさせてあげた方が良いということでした。

廊下に寝そべるしょん

自分はもちろん家族もショックでしたが、平気な顔をしているしょんを見ていると半分はまだ信じられないといった気持ちでした。それでももしかすると近いかもしれない別れに備え、このあとしょんは母親やモモと共に、単身赴任で2年前から大阪にいる父親の元でしばらくの間暮らすことになりました。

ケージの中のしょん

それから何事もなく、しょんの大阪での夏が過ぎました。両親はしょんとの時間を満喫できたようでした。しかし、無事川崎へ戻って来てから数週間後の9月10日に調子を崩し、家族が病院へ連れていくと、今度は急性腎不全と診断されました。

点滴や毒素を抜く処置をしてもらったようですが、利尿剤が効かず、明らかに元気はなくなってきていました。その週は偶然大阪から父親と、海外から妹が帰国しており、母親とともに交互で夜の間ずっと様子を見守っていたようです。

翌11日は自分とShanも様子を見に駆けつけました。しょんは朝8時に病院へ預けられ、治療を受けてから夕方6時に帰ってくるということを繰り返していました。夕方迎えに来た家族の顔を見ると、つらかったのか大きな声で鳴いたのだそうです。点滴の針が痛々しく心が痛みましたが、それぞれが仕事を調整し、夜を徹してしょんに付き添いました。

点滴をしたしょん

12日の夜は自分がかなりの時間一人でベッドの上のしょんと一緒に過ごしました。身体が思うように動かず、ときどきビクンとして長く寝られない感じでした。見守ることと、時折撫でてやることしかできないのがつらかったですが、カーテンの隙間から差す月明かりに浮かんだ、耐えるように目を閉じているしょんが、本当に美しい顔をしていたのがなぜか強く印象に残っています。

13日の治療を終えて戻ってくると、前日よりも呼吸が乱れ、まともに動くことはほとんどできませんでした。父親は仕事でこの日は大阪へ戻ったため、それ以外の人間で再び眠らない夜が始まるはずでした。しかし、0時が近づくにつれて、しょんは目を見開いたまま、舌を出しながら荒い息遣いをするようになりました。姿勢を変えてあげたり、声をかけ触ってあげたりと皆できることを必死で探しましたが、あまり効果がありませんでした。

そして、いよいよ苦しそうになると、視線が定まらないままのしょんは二度にゃあと鳴きました。自分がどうなるのか分からず怖かったのか、それとも家族に何かを伝えたかったのか。もう知る由もありませんが、それからまもなくしょんはベッドに突っ伏したまま、電池が切れるようにして徐々に動くのを止めました。

家族と離れての入院治療。痛みのせいか夜もまともに寝ておらず、あんなに大好きだったご飯も口にできなくなってしまいましたが、それでも最期の最期まで本当によく頑張ったと思います。正直思い出すだけでまだ涙が出てきますが、せめてあと一度だけ抱きしめてあげたい。今はそんな思いで一杯です。

蓮花寺

明けた9月14日の朝は皮肉なくらいの青空でした。夜の間に探したペット葬儀のお寺を朝一番で訪れ、しょんの供養をしてもらいました。その間、心の中ではずっと「焼かないで!やめてくれ!」と叫んでいましたが、しかし粛々と葬儀は進み、もうしょんの顔を撫でてやることは永遠にできなくなりました。

客観的に考えれば、呼吸が徐々に困難になる肺癌よりも、なぜか先に発症した急性腎不全の方が苦しむ時間は短いですし、普段離れている家族が偶然集まっていたことで、最後の時間を全員と共に過ごすことができたので、しょんは良い最期を迎えたと言っていいのだと思います。ただ、別れがつらいことにやはり変わりはありません。

ペットを失うことがなぜこんなにつらいのかと考えたりもしますが、そもそも人間であっても家族というのは意外と世の中の複雑な話をするよりも、何気ない毎日を一緒に過ごしたりとか、疲れたときにそっと側にいたりとか、言葉よりもそんな単純な時間の積み重ねの方が大切だったりします。

その意味ではしょんから16年余りに渡って何気なく受け取って来たいわゆる喜びだとか幸せのようなものは、家族からのそれ同然の大きさだったと思います。自分とShanにとっては今年もう二度目の大きな別れであり、結局どちらも後悔が残りました。時間切れになる前に、人生の様々な制約に負けず、大事なものを思いの分だけ大事にできる力を少しでも早く身につけたいと切実に思うばかりです。

カレンダーを眺めるとあれからひと月が経ち、9月14日は既に別のページになってしまいました。しょんのいた日々はこれからもどんどん遠ざかり、いつしかたくさんの思い出も曖昧なものになってしまうのだと思います。それでも、今はまだ鮮明なこの記憶と感覚を遠い将来少しでも思い出すためのよすがの一つとして。すべてはとても書き切れないにせよ、しょんへの感謝とともにこの記事を残したいと思います。

自分は神仏や霊的なものは信じないのですが、それでも今はただ切に願いたいと思います。

いつかどこかでまた君と巡り合うことができますように。

新聞の中のしょん